3月17日に79歳でこの世を去った内田裕也のお別れ会となる「内田裕也 Rock’n Roll葬」が4月3日に青山葬儀所で行われた。ビートたけし、堺正章ら大物芸能人が参列したお別れ会のなかで、とりわけ注目を集めているのが長女・内田也哉子による参加者への「謝辞」だ。
会場を訪れた芸能関係者が語る。「也哉子さんが謝辞を述べた際、ビートたけしさんら多くの参列者が言葉に感じ入り、目を潤ませていました。もっとも故人を偲んでというよりは、也哉子さんの父親に対する“複雑な感情”が見事に表現されていたからなのだと思います」
也哉子の父・内田裕也への“複雑な感情”とは。
「『きっと実感のない父と娘の物語が、はじまりにも気付かないうちに幕を閉じたからでしょう』と語ったように、かつては『奔放すぎる父親』に対して、本当に腹に据えかねていた上、周囲の方々に対して本当に申し訳なく思っていたのが本心でしょう。それでも内田裕也と樹木希林という夫婦から生まれたことを積極的に受け入れようとしている。まさに『私というふたりの証がここに立ち、またふたりの遺伝子は次の時代へと流転していく』という言葉が物語っています」(同関係者)
父・内田裕也のお別れ会で述べた言葉は、作家・内田也哉子の作品となった。
(村上ゆき)
【内田也哉子「謝辞」全文】
本日はお忙しいところ、父、内田裕也のロックンロール葬にご参列いただきまして、誠にありがとうございます。親族代表として、ご挨拶をさせていただきます。
私は正直、父をあまりよく知りません。わかりえないという言葉の方が正確かもしれません。けれどそこは、ここまで共に過ごした時間の合計が数週間にも満たないからというだけではなく、生前、母が口にしたように、こんなにわかりにくくて、こんなにわかりやすい人はいない。世の中の矛盾をすべて表しているのが内田裕也ということが根本にあるように思えます。私の知りうる裕也は、いつ噴火をするかわからない火山であり、それと同時に、溶岩の狭間で物ともせずに咲いた野花のように、清々しく無垢な存在でもありました。
率直に言えば、父が息を引き取り、冷たくなり、棺に入れられ、熱い炎で焼かれ、ひからびた骨と化してもなお、私の心は、涙でにじむことさえ戸惑っていました。きっと実感のない父と娘の物語が、はじまりにも気付かないうちに幕を閉じたからでしょう。けれども、今日、この瞬間、目の前に広がる光景は、私にとっては単なるセレモニーではありません。裕也を見届けようと集まられたお一人、お一人が持つ、父との交感の真実が、目に見えぬ巨大な気配と化し、この会場を埋め尽くし、迸っています。父親という概念には、到底、おさまりきらなかった内田裕也という人間が叫び、交わり、噛みつき、歓喜し、転び、沈黙し、また転がり続けた震動を、皆さんは確かに感じ取っていた。
「これ以上、お前は何が知りたいんだ」きっと、父もそう言うでしょう。
そして、自問します。私が唯一、父から教わったことは、何だったのか。それは、多分、大げさに言えば、生きとし生けるものへの畏敬の念かもしれません。彼は破天荒で、時に手に負えない人だったけど、ずるい奴ではなかったこと。地位も名誉もないけれど、どんな嵐の中でも駆けつけてくれる友だけはいる。
「これ以上、生きる上で何を望むんだ」そう聞こえてきます。
母は晩年、自分は妻として名ばかりで、夫に何もしてこなかった、と申し訳なさそうに呟くことがありました。「こんな自分に捕まっちゃったばかりに」と遠い目をして言うのです。そして、半世紀近い婚姻関係の中、折り折りに入れ替わる父の恋人たちに、あらゆる形で感謝をしてきました。私はそんな綺麗事を言う母が嫌いでしたが、彼女はとんでもなく本気でした。まるではなから「夫は自分のもの」という概念がなかったかのように。
もちろん、人は生まれもって誰のものでもなく個人です。歴とした世間の道理は承知していても、何かの縁で出会い、夫婦の取り決めを交わしただけで、互いの一切合切の責任を取り合うというのも、どこか腑に落ちません。けれども、真実は、母がその在り方を自由意志で選んだのです。そして、父もひとりの女性にとらわれず心身共に自由な独立を選んだのです。
ふたりを取り巻く周囲に、これまで多大な迷惑をかけたことを謝罪しつつ、今更ですが、このある種のカオスを私は受け入れることにしました。まるで蜃気楼のように、でも確かに存在したふたり。私というふたりの証がここに立ち、またふたりの遺伝子は次の時代へと流転していく。
この自然の摂理に包まれたカオスも、なかなか面白いものです。
79年という長い間、父が本当にお世話になりました。最後は、彼らしく送りたいと思います。
Fuckin’ Yuya Uchida,
don’t rest in peace
just Rock’n Roll!