「天才子役」のレッテルは、彼女の人生を救い、そして生涯にわたる十字架となった。わずか5歳で銀幕デビューを果たし、シャーリー・テンプルと並び称された高峰秀子。しかし、その華やかなスターダムの裏側には、幼くして母を亡くし、養女として生きるという複雑な家庭環境があった。子役スターとしての輝きは、やがて成瀬巳喜男や木下惠介といった巨匠たちの手により、日本映画を代表する名女優へと昇華していく。その歩みは、まさに日本映画史そのものと言えるだろう。

基本プロフィール

フリガナ たかみね ひでこ
生年月日 1924年3月27日
出身地 北海道函館市
身長 158cm
ジャンル 女優、歌手、エッセイスト

5歳で主役抜擢「母」の奇跡

「デコちゃん」の愛称で親しまれた高峰秀子は、生まれながらにして映画の世界に引き寄せられる運命を背負っていた。わずか4歳で母を結核で失い、東京の養母・志げのもとに引き取られた彼女の幼少期は、決して安泰なものではなかった。養父は旅回りの興行師で家を空けることが多く、養母は内職の針仕事で糊口をしのぐ日々。そんな中で、5歳の時に訪れた松竹蒲田撮影所での出来事が、彼女の人生を一変させる。

それはまったくの偶然だった。家主の知り合いである俳優に連れられて撮影所を見学に行ったその日、たまたま野村芳亭監督の『母』の子役オーディションが行われていた。列の最後尾に並ばされた秀子は、養父に促されるがままに飛び入り参加する。ところが、その無垢な眼差しが野村監督の目に留まり、たちまち主役の娘役に抜擢されてしまうのである。1929年、5歳での映画デビューは、まさに運命のいたずらと呼ぶにふさわしい。

『母』は大ヒットし、高峰秀子の名は一夜にして世に知れ渡った。たちまち松竹の看板子役として、小津安二郎や五所平之助といった巨匠たちの作品に次々に起用される。学校にはほとんど通えぬほどの多忙な撮影スケジュールをこなし、「秀坊」とあだ名されるほど男の子役もこなすその天才ぶりは、やがてハリウッドのシャーリー・テンプルと比較されるまでになる。しかし、華やかなスターの陰には、複雑な家庭環境と数奇な養子縁組が彼女を待ち受けていた。子役としての絶頂期、彼女は次に思いがけない転機を迎えることになる。

木下惠介と成瀬巳喜男で開花

「天才子役」のレッテルは、時に重い十字架となる。高峰秀子はその典型だった。5歳で映画デビューを果たし、シャーリー・テンプルと並び称されるほどの人気を博した彼女だが、少女期に差し掛かると、子役としてのイメージが強すぎるがゆえの壁に直面する。そんな中、彼女の転機となったのは、1936年、五所平之助監督の『新道』への出演である。田中絹代演じるヒロインの妹役に抜擢されたこの作品で、秀子は「可愛い子役」から「演技する女優」への第一歩を踏み出した。共演した大女優・田中絹代に実の妹のように可愛がられ、その演技を間近で学ぶ日々は、彼女の芸の血肉となっていったに違いない。

しかし、真のブレイク、そして日本映画史に残る女優への飛躍は、戦後を待たねばならなかった。1950年代、彼女は木下惠介、成瀬巳喜男という二人の巨匠監督と出会い、その才能を開花させる。木下惠介監督の『カルメン故郷に帰る』(1951年)では、ストリッパーという当時としては挑戦的な役柄で、屈託のない明るさと哀愁を見事に融合させた。続く『二十四の瞳』(1954年)では、過酷な時代を生き抜く教師・大石先生を演じ、多くの観客の胸を打った。そして、彼女の代表作の頂点と言えるのが、成瀬巳喜男監督の『浮雲』(1955年)である。戦後の混乱の中で、ダメ男に翻弄されながらもしぶとく生きる女性・雪子を、秀子はどこまでも等身大で、それでいて深い哀切を湛えて演じきった。この役は、彼女が単なる「愛らしい女優」を超え、人間の業と悲哀を描き出す真の意味での大女優であることを、世に知らしめたのである。子役時代の輝きを、大人の女優としての深みへと昇華させた稀有な存在、それが高峰秀子という女優の真骨頂だった。

出演作品

公開・放送開始年 作品名
1979 衝動殺人 息子よ
1976 ふたりのイーダ
1976 スリランカの愛と別れ
1973 恍惚の人
1969 鬼の棲む館
1967 華岡青洲の妻
1966 ひき逃げ
1965 六條ゆきやま紬
1964 乱れる
1963 女の歴史
1962 ぶらりぶらぶら物語
1962 放浪記
1962 二人で歩いた幾春秋
1962 山河あり
1962 女の座
1961 永遠の人
1961 妻として女として
1961 人間の條件 完結篇
1961 名もなく貧しく美しく
1960 笛吹川
1960 娘・妻・母
1960 女が階段を上る時
1958 無法松の一生
1958 張込み
1957 風前の灯
1957 㐂びも悲しみも幾歳月
1957 あらくれ
1957 「雲の墓標」より 空ゆかば
1956 流れる
1956 妻の心

養女として翻弄された少女時代

高峰秀子といえば、天才子役から日本映画を代表する大女優へと上り詰めた華やかな経歴が思い浮かぶ。しかし、その人生の裏側には、養女としての複雑な家庭環境と、幾度もの「引き取り」の危機がつきまとっていたのだ。

わずか4歳で実母を亡くし、父の妹・志げの養女となる。その志げの夫は興行ブローカーで家を空けることが多く、生活は内職の針仕事で支えられるという不安定なものだった。1929年、5歳の時に松竹蒲田撮影所で子役デビューを果たし、『母』が大ヒットすると、たちまち「日本のシャーリー・テンプル」と称されるスターとなる。だが、その人気が新たな波乱を呼び込む。作詞家・藤田まさとに可愛がられ、歌手の東海林太郎の養女にされる寸前までいったのである。東海林は秀子を溺愛し、撮影所通いさえも止めさせようとしたという。結局、養母・志げとの生活を選び、この縁組は破談となった。芸能界の寵児でありながら、その身柄を巡って大人たちの思惑に翻弄される少女時代だった。

その後も、破産した実家の祖父一家を東京で引き取るなど、経済的・精神的な重圧は続いた。しかし、そうした苦労が彼女の演技に深みを与えていったのかもしれない。子役から大人の女優への転換期には、大女優・田中絹代に実の妹のように可愛がられ、その豪邸に泊まり込みながら芸を磨いた。こうして培われた表現力は、木下惠介監督の『二十四の瞳』で涙なくしては見られない山村教師を演じ、ブルーリボン賞主演女優賞をもたらす。そして、1955年の成瀬巳喜男監督『浮雲』での、だらしなくも切ない幸田雪子役は、キネマ旬報ベスト・テン主演女優賞に輝く不朽の名演となった。

『浮雲』は第3回東南アジア映画祭で最優秀女優賞をも獲得し、その評価は国際的にも高まった。その後も『喜びも悲しみも幾歳月』『永遠の人』と主演女優賞を総なめにし、1965年には『乱れる』でロカルノ国際映画祭最優秀女優賞を受賞する。日本を代表する女優としての地位を確固たるものにしていくのである。

だが、彼女の真骨頂は、華やかな受賞歴の向こう側にある。養母・志げへの深い愛情と責任感、そして複雑な生い立ちから滲み出る、どこか達観したような、しかし芯の強い人間味こそが、高峰秀子の最大の魅力だった。スクリーンに映る彼女の眼差しには、少女時代に味わった漂泊の記憶が静かに息づいているように思えてならない。

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