「女優として初の文化勲章」という栄誉の裏には、波乱万丈の人生があった。山田五十鈴は、芸者だった母の命で6歳から芸事を叩き込まれ、14歳で映画界に飛び込んだ。デビュー1年で15本もの作品に出演し、一気にトップスターの座を射止めるが、その華やかなキャリアは、恋愛と結婚、そして決断の連続でもあったのだ。
基本プロフィール
| フリガナ | やまだ いすず |
|---|---|
| 生年月日 | 1917年2月5日 |
| 出身地 | 大阪府大阪市南区千年町・(現在の大阪市中央区東心斎橋) |
| 血液型 | A型 |
| ジャンル | 女優・歌手 |
芸者の娘から日活スターへ
芸者と俳優の間に生まれた娘が、6歳で芸の世界に放り込まれた。稽古は厳しく、生活は常に不安定だった。父の巡業で一家は東京へ、そして母と共に清元の内弟子となる。芸事に明け暮れる少女時代、彼女の運命を変えたのは父の縁だった。1930年、日活太秦撮影所への入社。伊勢神宮の清流にちなんだ「五十鈴」の名を与えられ、13歳の彼女は大河内傳次郎の相手役として華々しくデビューを果たす。可憐な美貌と厳しい修行で培った表現力はたちまち注目を集め、デビュー1年で15本もの作品に出演。時代劇のトップ女優への階段を一気に駆け上がったのである。
溝口健二が導いた女優の覚醒
「ベルさん」の愛称で親しまれた山田五十鈴。その女優人生を決定づけたのは、溝口健二監督との出会いだった。デビュー当初は可憐な時代劇の娘役として人気を集めたが、結婚・出産を機に一度は引退を考えていた。しかし、1936年に溝口が差し伸べた『祇園の姉妹』への出演が、すべてを変える。
この作品で彼女が演じたのは、祇園で生きる覚悟を決めた芸妓・お雪だ。従来の清楚なヒロイン像を打ち破り、現実の泥臭さと哀しみを内に秘めた演技は、観客のみならず業界にも衝撃を与えた。これが彼女の「女優」としての覚醒の瞬間であった。以降、彼女は単なるスターではなく、役柄に魂を吹き込む演技派としての地位を確立していく。
戦後は、テレビドラマ『必殺シリーズ』の女仕事人役で新たな世代にもその存在を刻み込んだ。清楚な顔立ちとは裏腹に、芯の強さと複雑な情感を漂わせる演技は、いかなる時代にも通用する普遍性を持っていた。2000年には女優として初の文化勲章を受章、その生涯はまさに日本映画史そのものと言えるだろう。山田五十鈴の魅力は、時代に流されない確固たる「演技力」にこそあった。
出演作品
| 公開・放送開始年 | 作品名 |
|---|---|
| 2002 | 黒澤明~創ると云う事は素晴らしい~蜘蛛巣城 |
| 2000 | Kurosawa |
| 1985 | 必殺!ブラウン館の怪物たち |
| 1984 | 必殺! THE HISSATSU |
| 1982 | 疑惑 |
| 1982 | 嵐立つなり |
| 1981 | 新必殺仕事人 |
| 1979 | 日本名作怪談劇場 四谷怪談 |
| 1979 | 必殺仕事人 |
| 1978 | 柳生一族の陰謀 |
| 1975 | ある映画監督の生涯 溝口健二の記録 |
| 1970 | 女組長 |
| 1966 | 源義経 |
| 1964 | 赤穂浪士 |
| 1963 | 咲子さんちょっと |
| 1962 | 裸体 |
| 1962 | 秦・始皇帝 |
| 1962 | 三百六十五夜 |
| 1962 | 假名手本忠臣蔵 |
| 1962 | 山の讃歌 燃ゆる若者たち |
| 1962 | 山麓 |
| 1961 | 釈迦 |
| 1961 | 若さま侍捕物帖 黒い椿 |
| 1961 | 安寿と厨子王丸 |
| 1961 | 用心棒 |
| 1961 | もず |
| 1961 | 誰よりも金を愛す |
| 1961 | 大阪城物語 |
| 1960 | 風来物語 あばれ飛車 |
| 1960 | 風流深川唄 |
波瀾の恋が生んだ演技の深み
「ベルさん」の愛称で親しまれた山田五十鈴。その名は、女優として初の文化勲章受章者としても知られるが、彼女の人生は、華やかなステージの裏で激しい恋と波瀾に満ちていた。
父は新派俳優、母は北新地の売れっ子芸者という芸能一家に生まれ、6歳で芸事の厳しい稽古を始めた。その美貌と才能は早くから開花し、日活太秦撮影所ではデビュー1年で15本もの作品に出演、一気にトップ女優の座を射止める。しかし、その私生活は奔放そのものだった。第一映画時代、共演した月田一郎との間に子を授かり結婚するが、溝口健二監督の『祇園の姉妹』での演技が絶賛されたことで女優を続けることを決意。夫婦の収入格差から亀裂が生じ、離婚に至る。その後、映画製作者・滝村和男と再婚するも、わずか1年余りで破綻。戦中には新演伎座で共演した女形の花柳章太郎、戦後は名匠・衣笠貞之助監督とも恋愛関係に発展するなど、情熱的な恋多き人生を送ったのである。
こうした私生活の波瀾は、むしろ彼女の芸の深みに繋がっていった。1956年には『母子像』『流れる』などでブルーリボン賞主演女優賞を受賞、翌年も助演女優賞を獲得するなど、戦後日本映画を代表する大女優としての地位を確固たるものにする。舞台では水谷八重子、杉村春子と並び「三大女優」と称され、テレビドラマ『必殺シリーズ』では渋い味わいの女仕事人役で新たなファン層を獲得した。
清元の名取りであり、三味線や舞も嗜んだ芸達者な彼女は、役者である以前に「芸人」であった。その生涯は、恋に、芸に、あくまで真摯に生きた、昭和という時代を体現する女優の生き様そのものだったと言えるだろう。