田原俊彦が語った「ジャニーさんの僕への興味」の「本当の意味」
出典:田原俊彦オフィシャルサイト

“トシちゃん”の愛称で知られ、80年代を代表するスターとして活躍した田原俊彦。歌手、俳優としてSMAP台頭以前のジャニーズ事務所を支えた田原だが、94年に電撃退社を決断して以来、波乱万丈の芸能人生を送ることに――

 田原の芸能人生を振り返ってみたい。

 小学校入学直後に父親を亡くし、母親が4人の子供を育てる母子家庭に育った田原にとって芸能界入りは家族を養っていく必要からだった。高校一年生となった76年、田原はジャニーズ事務所に入所すべく事務所を“直接訪問”。

 事務所スタッフからジャニー喜多川が有楽町・日本劇場にいると教えられた田原は喜多川社長に直談判し、入所を認められた。

 自宅のある甲府と東京を往復しながらレッスンを重ねてきた田原に「芸能界デビュー」のチャンスが巡ってきたのが78年のこと。テレビ朝日系「とびだせ!パンポロリン」で“歌と体操のお兄さん”の代役として出演したのだ。

 翌79年、田原は川崎麻世のバックコーラス&ダンスグループとして結成された「ピラミッド」に参加。日本テレビ系「ミュージックボンボン」にピラミッドのメンバーとしてレギュラー出演することとなった。

 そんな田原にとってブレイクのきっかけとなったのがTBS系ドラマ「3年B組金八先生」における沢村正治役での出演。

 同ドラマで共演した近藤真彦、野村義男とともに「たのきんトリオ」として一大ブームを巻き起こし、レギュラー番組「たのきん全力投球!」(TBS系) がスタート。

 さらには東宝制作の映画が「たのきんスーパーヒットシリーズ」と題してシリーズ化され、田原は「グッドラックLOVE」「ウィーン物語 ジェミニ・YとS」で出演を務めた。

 たのきんトリオとしての大ブレイクしているさなか、80年に「哀愁でいと」で歌手デビューした田原。その後、90年に発売された「ジャングルJungle」まで、10年にわたり「37作連続オリコンシングル連続TOP10入り」の記録を残す活躍ぶりを見せている。

 俳優としての代表作はフジテレビ系「びんびんシリーズ」。主人公・徳川龍之介として「ラジオびんびん物語」「教師びんびん物語」「教師びんびん物語II」「SPびんびん物語」「巡査びんびん物語」などに出演。

 なかでも89年放送の「教師びんびん物語II」では最高視聴率31.0%を記録するなど、国民的人気ドラマとなった。

 また人気絶頂だった中山美穂との熱愛が「FRIDAY」で報じられるなど、昭和から平成序盤にかけて、名実ともにトップ芸能人として駆け抜けた田原だが、彼にとって“転落”のきっかけとなったのが94年のジャニーズ事務所からの独立だ。

 個人事務所「DOUBLE “T” PROJECT」の設立した田原は、同年の長女の誕生に関する会見で「隠密にやりたかったけど、僕くらいビッグになっちゃうとそうはいきませんからね」とコメント。この発言が「思い上がり」だとして各マスコミから猛バッシングを受けたのだ。

 当時を知る芸能記者が語る。「この発言をした際の彼の表情を見ると明白なんですが、田原は完全にジョークとして語っているんです。当時、“炎上”という言葉はありませんでしたが、わざわざメディアが田原を炎上させたと見るのが正確なところ。その背景には『ジャニーズ事務所への忖度』があるんです」

 どういった忖度なのか。

「その頃、芸能関係者の間では『田原がジャニーズ事務所を強引に辞めた』という思い込みが広がっていて『“裏切り者”の田原をバッシングすれば事務所が喜ぶのでは』という勝手な忖度です。

 最近になって、当時、田原とジャニーズ事務所は『実は“ほぼ円満退所”だった』という真相が判明している。田原にとって『ビッグ発言』での炎上は『メディアによるリンチ』だとしか言いようがありません」(同記者)

「ビッグ発言」の影響から女性ファッション誌「anan」が94年に行ったアンケートで「嫌いな男1位」になるまでに転落した田原。

 その後、長年にわたり“干された”状態が続いていたものの、現在に至るまで、コンスタントに新曲を制作しコンサートやディナーショーを継続している。

 そんな田原は「週刊文春」2019年5月2日・9日号で「田原俊彦 <初告白5時間>『ジャニーさんの僕への興味は20代半ばで終わった』」と題したインタビューに登場。

 ジャニーズ事務所時代を振り返った田原は、ジャニー喜多川社長について「彼はデビューして何年か経つと、僕の現場から離れていきました」と吐露。「ジャニーさんが興味を持ってプロデュースするアイドルとしての僕は、二十代半ばに終わっていたんです」と明かしたのだ。

「ジャニー社長は田原の現場から離れていかざるを得なかった」

 この「ジャニーさんの僕への興味は20代半ばで終わった」発言について「ジャニー喜多川社長にとって“経営上”の必然的な判断だったのでしょうね」と前出の芸能記者は指摘する。

「ジャニーズ事務所にとって、田原が“二十代半ば”となった80年代中盤はまさに過渡期。男闘呼組と光GENJIが人気を集めだし、86年に中居正広が、87年には木村拓哉、稲垣吾郎、草彅剛、香取慎吾、森且行とSMAPがメンバーが一斉に入所した頃です。

こうした時期に10年後、20年後の事務所経営を見据えれば、シビアな「経営判断」として田原に注力することはできない。田原に対しジャニー喜多川社長の“興味”がなくなったわけではなく、田原の現場から離れていかざるを得なかったというのが真相でしょうね」(同記者)

 波乱の芸能人生を送る稀代のスター・田原俊彦。令和の時代にも変わらぬ輝きを期待したい。

(大倉さとみ)

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