「天才少女」のレッテルを貼られた時、彼女はまだ9歳だった。しかし、その歌声は子供らしさなど微塵も感じさせず、大人の心を鷲掴みにする圧倒的な力を持っていた。美空ひばり――本名・加藤和枝。魚屋の長女として生まれ、戦後の焼け野原から、母・喜美枝の並々ならぬ情熱と共に這い上がったその少女は、やがて「歌謡界の女王」と呼ばれるまでに上り詰める。その生涯は、昭和という時代そのものの光と影を濃密に映し出している。

青空楽団から古賀政男の衝撃

昭和の闇が深い頃、横浜の魚屋に一人の少女がいた。彼女の歌声は、戦争で荒んだ人々の心を一瞬で癒した。母はその才能に賭け、私財を投じて「青空楽団」を結成。8歳の美空和枝は、銭湯や公民館を舞台に歌い始める。

しかし、順風満帆ではなかった。NHK『素人のど自慢』では、そのあまりの完成度に審査員が困惑。「子供らしくない」という理由で不合格となる。だが、この挫折が運命を変える。母は審査員の古賀政男に直談判し、少女はアカペラで「悲しき竹笛」を歌い上げた。古賀は驚愕した。「君はもうのど自慢の段階じゃない」――この一言が、天才への道を確かなものにしたのである。

その後、地方巡業中のバス事故で生死をさまよう。仮死状態から奇跡的に生還した彼女は、父の「歌をやめろ」という命令に、「歌をやめるなら死ぬ!」と吼えた。この強靭な意志が、後の「不死鳥」と呼ばれる所以だろう。

転機は11歳の時。無名の少女の才能を見抜いたのは、人気ボードビリアンの川田義雄だった。横浜国際劇場への抜擢が決定的となる。そして、演出家・岡田恵吉から与えられた「美空ひばり」の名は、やがて時代を超える伝説の第一歩となったのである。

川田義雄が導いた横浜国際劇場デビュー

あの圧倒的な歌声は、9歳の少女のものとは思えなかった。1946年、敗戦直後のど自慢大会で「リンゴの唄」を披露した美空ひばりは、そのあまりの完成度ゆえに「子供らしくない」という理由で不合格となる。しかし、この挫折こそが、伝説の始まりを予感させる出来事だった。審査員の一人、作曲家の古賀政男は彼女の才能に衝撃を受け、「君はもうのど自慢の段階じゃない」と告げたのである。

彼女の真のブレイクは、11歳の時に訪れる。当時の大人気コメディアン、川田義雄(後の川田晴久)が、無名の少女の類い稀な才能を見抜き、自身の舞台に抜擢したのだ。川田から学んだ独特の節回しは、後の「ひばり節」の礎となった。そして、横浜国際劇場の支配人・福島通人が彼女のマネージャーとなり、映画への出演を次々と実現させていく。歌と映画という二つのメディアを駆使し、彼女は一気に国民的スターへの階段を駆け上がったのである。

代表作と言えば、やはり1957年に公開された映画『悲しき口笛』とその主題歌を挙げねばなるまい。戦後の荒廃と復興の時代に、ひばりが演じた少女の純粋な心情と、切なくも力強い歌声は、多くの人の心を揺さぶった。「リンゴ追分」や「柔」など、数々のヒット曲を生み出したが、その根底には常に、幼い頃から鍛え抜かれた圧倒的な歌唱力と、どんな逆境にも負けない強い意志があった。彼女の歌は、単なる流行歌を超え、昭和という時代そのものを映し出す鏡となったのだ。

出演作品

公開・放送開始年 作品名
2005 オペレッタ狸御殿
2002 美空ひばりコンサート「愛ある限り私は歌う '82美空ひばりリサイタル」
1989 春一番! 熱唱美空ひばり
1986 美空ひばりコンサート「美空ひばり芸能生活40周年記念リサイタル」
1971 ひばりのすべて
1971 女の花道
1970 花の不死鳥
1970 花と涙と炎
1969 ひばり・橋の花と喧嘩
1968 祇園祭
1968 大奥
1966 のれん一代 女侠
1966 小判鮫 お役者仁義
1965 新蛇姫様 お島千太郎
1964 ひばり チエミ いづみ 三人よれば
1963 残月大川流し
1963 民謡の旅 秋田おばこ
1963 夜霧の上州路
1963 旗本退屈男 謎の竜神岬
1963 ひばり・チエミのおしどり千両傘
1963 勢揃い東海道
1962 お坊主天狗
1962 花笠道中
1962 ひばりの佐渡情話
1962 三百六十五夜
1962 ひばりの母恋いギター
1962 民謡の旅 桜島 おてもやん
1962 千姫と秀頼  
1962 べらんめえ芸者と大阪娘
1962 ひばり・チエミの弥次喜多道中

バス事故と「歌をやめるなら死ぬ!」の決意

あの伝説の歌声は、死と隣り合わせの事故から生まれた。9歳でデビューした天才少女、美空ひばり。彼女の歌手生命は、10歳の時にバス事故で崖から転落し、仮死状態になった瞬間、一度は絶たれかけた。意識を取り戻した彼女が、歌をやめろと怒る父に放った一言は「歌をやめるなら死ぬ!」。この強靭な意志が、後の「歌謡界の女王」を誕生させたのだ。

その類い稀な才能は、幼少期から既に異彩を放っていた。NHK『素人のど自慢』で不合格となったのは、審査員が「子供らしくない」とその完成度の高さに戸惑ったからに他ならない。しかし、その歌声を聴いた古賀政男は「君はもうのど自慢の段階じゃない」と絶賛。ここから、ひばりの伝説が動き出す。

彼女の芸風に決定的な影響を与えたのは、ボードビリアンの川田晴久だった。ひばりは川田を「アニキ」と呼び、その節回しを徹底的に学んだ。後の声紋鑑定でも両者の歌唱法は一致しており、ひばり自身も「師匠は父親と川田先生だけ」と語っている。一方で、大人の恋愛歌を歌う少女への違和感も強く、詩人のサトウハチローからは「ゲテモノの少女歌手」と酷評されるほど、その存在は当時の常識を揺るがした。

1960年、『哀愁波止場』で日本レコード大賞歌唱賞を受賞し、「歌謡界の女王」の異名を定着させた。その後も『柔』で同大賞を受賞するなど、数々の栄誉に輝くが、その人生は華やかさだけでは語れない。幼い頃から一家を支えるために歌い続け、時に暴力団との関わりも報じられるなど、常に波乱に満ちていた。

最期まで歌い続けた彼女が遺した『川の流れのように』は、没後に日本レコード大賞特別栄誉歌手賞を受賞。国民栄誉賞も贈られたが、その歌声の底に流れるのは、あの事故の際に桜の木に引っかかったバスと同じ、ぎりぎりのところで生き抜いた者の「哀愁」と「強さ」なのかもしれない。

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