「あのルーニーを封じた男」――。ドイツの名門シャルケで右サイドバックとして不動の地位を築き、UEFAチャンピオンズリーグの準決勝という大舞台で世界のスターと渡り合った男がいた。内田篤人である。彼のサッカー人生は、決して順風満帆なものではなかった。高校入学時には「進学校」を選択し、プロへの道は見えていなかった。しかし、その後の爆発的な成長は、日本サッカー界に新たな伝説を刻みつけることになる。
基本プロフィール
| 出身地 | 静岡県田方郡函南町 |
|---|---|
| 身長 | 176cm |
生い立ち・デビューまでの経緯
静岡の片田舎から、世界の大舞台へ。内田篤人のサッカー人生は、決して順風満帆なスタートではなかった。
地元の函南中学校では、とりわけ目立った活躍をしたわけではない。しかし、彼の心には確かな意志があった。強豪校への進学と大学進学という二つの道を両立させるため、彼が選んだのは進学校としても名高い清水東高校だった。自宅から片道1時間半。この長い通学時間が、彼の忍耐力とサッカーへの情熱をさらに鍛え上げたに違いない。
高校では着実に頭角を現し、卒業時には複数のクラブから注目を集める存在となっていた。そして2006年、彼は鹿島アントラーズの門を叩く。ここで運命的な出会いが待っていた。新監督パウロ・アウトゥオリである。このブラジル人指揮官は、内田の潜在能力を見抜き、高卒ルーキーという肩書きを軽々と飛び越えさせた。
Jリーグ開幕戦でのスタメン起用。そして、鮮烈なドリブル突破からPKを獲得するデビュー戦。続く甲府戦では、クラブ史上最年少となるゴールを叩き込み、その才能は一気に開花する。17歳11か月でのプロ初得点は、高卒ルーキーの新たな歴史となった。彼は瞬く間に鹿島の守りの要となり、日本サッカー界に彗星のごとく現れたのである。
ブレイクのきっかけ・代表作
清水東高のランニングコースを毎日走り抜けたその足は、やがて世界のピッチを駆け抜けることになる。内田篤人のブレイクは、2006年、鹿島アントラーズでの鮮烈なデビューに始まる。高卒ルーキーながら開幕戦でスタメンに抜擢され、ドリブルで切り裂いてPKを獲得。そのわずか3試合後には、クラブ史上最年少得点を叩き出し、瞬く間にJリーグを代表する右サイドバックへと駆け上がったのだ。
彼の真骨頂は、攻守にわたる爆発的なスピードと、ピンチをチャンスに変える前向きな突破力にある。パウロ・アウトゥオリ監督に見出され、2年連続のJリーグベストイレブンに選ばれるなど、鹿島の黄金時代を支える不動の存在となった。その活躍は国内にとどまらず、2010年、ドイツ・シャルケ04への移籍で新たな舞台へと飛び立つ。
シャルケでは、UEFAチャンピオンズリーグの大舞台でその実力を遺憾なく発揮した。リヨン戦での鮮やかなアシストは欧州サッカーファンを驚かせ、準々決勝では長友佑都との「日本人対決」を実現。マンチェスター・ユナイテッドとの死闘を経て、日本人として初のCLベスト4進出に貢献する。ドイツでは「サムライウッシー」の愛称で親しまれ、幾度もの負傷と闘いながらも、確固たるポジションを築き上げたのである。
人物エピソード・逸話
あのシャルケの右サイドを疾走したサムライは、実は進学校のエリートだった。内田篤人のサッカー人生は、静岡・函南の自宅から片道1時間半かけて清水東高校に通い、大学進学をも視野に入れたところから始まっている。当時は目立たない存在で、プロへの道は決して約束されていなかった。
しかし、その潜在能力は鹿島アントラーズ加入後、一気に花開く。高卒ルーキーながら開幕戦でスタメンに抜擢され、史上最年少での得点記録も樹立。瞬く間にJリーグを代表する右サイドバックへと成長し、2008年、2009年とJリーグベストイレブンに連続選出された。鹿島の黄金時代を支えたその足元は、やがて海外へと向かうことになる。
2010年、シャルケ04への移籍は日本中を沸かせた。移籍直後は苦労したものの、持ち前のスピードと正確なクロスでレギュラーを奪取。UEFAチャンピオンズリーグでは準決勝進出という快挙に貢献し、現地メディアから「サムライウッシー」の愛称で称えられた。ドイツの公式サイトが選ぶベストイレブンに名を連ねるなど、その評価は揺るぎないものとなっていく。
だが、その華やかなキャリアの陰には、度重なる右太ももの負傷という苦難が付きまとった。それでもシャルケとの契約を2018年まで延長し、チームにコミットメントを示した姿勢は、ファッション界からも高く評価されることになる。現役引退後の2024年には「ベストフォーマリスト」男性部門を受賞。ピッチ外でも確かなセンスを発揮している。
知られざる進学校出身のエリートから、ヨーロッパで名を馳せたサムライへ。内田篤人の歩みは、ただのサッカー選手の物語を超えている。