歯に衣着せぬ発言でおなじみの坂上忍にも、画面の中で大人を泣かせる子役だった時代がある。1972年のドラマ「下町かあさん」でデビューし、その後も家庭ドラマなどで存在感を発揮。長い芸歴を支えた出発点は、さぞ早くから芽生えた俳優への憧れだったのかと思いきや、本人が語る事情はまったく違う。
そこには、幼い子供を心配した母親の判断と、撮影所で出会った個性の強い父親役たちがいた。
坂上忍が児童劇団に入った「祖母との別れ」
坂上は2020年の「不登校新聞」のインタビューで、劇団に入るまでの経緯を明かしている。本人の記憶ではなく母親から聞いた話として、2歳7カ月の頃に大好きだった祖母が亡くなり、口数を失ってしまった時期があったという。
母親が選んだのは、近所にあった児童劇団だった。芸能界で売り出すことより、同年代の子供たちと過ごすことに意味があったのである。入団後に友達ができ、再び話すようになった。後年、天才子役と呼ばれる俳優の第一歩は、まず子供らしい日常を取り戻すためのものだった。
やがてテレビの現場に入ると、周囲には一流の俳優たちがいた。子役も仕事の場に立てば、ただかわいがられるだけでは済まない。坂上が18年のテリー伊藤との公開対談で語った父親役の思い出には、そんな撮影所の空気がにじむ。
厳しい宇津井健、遊び相手になった加山雄三
宇津井健は、芝居に向き合う姿勢が厳格だった。坂上の回想では、稽古にも早く入り、体づくりや食事にも気を配っていたという。食事の場面で使う白飯を大根おろしに替えていたという話まで出てくる。子供の目には、演技の外側まで管理する俳優の姿が焼きついたはずだ。
一方、加山雄三との思い出はぐっとにぎやかになる。エンジン付きのスケートボードなど、当時の少年にはたまらない遊び道具を持ち込み、一緒に遊んだ。ところが撮影に遅れて叱られるのは、なぜか自分の側だったという。
もちろん、これは坂上が笑いを交えて語った当時の回想だ。大物俳優の教育方針を一律に説明するものではない。それでも、同じ父親役であっても接し方はまるで違い、子供にとっての現場の思い出が、演技の指導だけでできていないことはよくわかる。
後年、子供たちを指導する側になった坂上は、不登校新聞の取材で、目立つ子ばかりに主役を任せない考えも語っている。おとなしい子にも中心に立つ機会をつくり、積極的な子には周囲を支える経験をしてもらう。演技の巧拙だけで子供の役割を固定しないという姿勢だった。
祖母を失った少年に、最初に必要だったのはスターになる訓練ではなく、友達のいる場所だった。坂上忍の子役時代をさかのぼると、俳優としての早熟さより先に、子供が人の輪へ戻っていく物語が見えてくる。