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志村けん「東村山音頭」は本人のオリジナル曲ではなかった! 稽古場の意地が「全国区の笑い」に変わるまで

東村山の名前を広く知らしめた志村けんの歌。もともとは地域で作られた音頭が、稽古場のやり取りから舞台へ出ていった。

志村けん
志村けん(画像はイザワオフィス公式サイトより)
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 東村山と聞けば、志村けんの顔と歌声が浮かぶ。そんな結びつきを全国に作ったのが「東村山音頭」だった。地名を繰り返しながら笑いを起こすあの芸は、志村が一から作った歌だと思われても不思議ではない。

 しかし、原曲は志村がテレビで披露する前から地元にあった。しかも、舞台で使うきっかけは、全国向けに地元を宣伝しようという企画ではなく、稽古場でのちょっとした意地だったという。

東村山音頭の出発点は1961年の農協だった

 東村山市と西武鉄道が2020年に公表した資料によると、東村山音頭は1961年に東村山の農協によって作られた楽曲だ。志村のテレビ出演を売り出すために用意された曲ではなく、地域の人が歌い踊るための音頭が先に存在していた。

 その曲をもとに、志村が独特の歌と動きを加え、「8時だヨ!全員集合」などで披露した。原曲があることと、志村の芸が独創的であることは矛盾しない。地元の歌を、そのまま紹介するだけではない笑いに変えたところに、志村の仕事があった。

 では、どうしてその歌を持ち出したのか。映画誌SCREENが20年に再掲載した、78年5月号の水野晴郎との対談には、志村本人の説明が残っている。

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「田舎者」と言われた志村けんが、わざと歌った

 志村の回想では、ドリフターズに入った頃、周囲から東村山の田舎者とからかわれていたという。そこで意地になり、あえて地元の歌を歌っていた。それが稽古場で受け、舞台でも試そうという話になったのだった。

 からかわれた地名を隠すのではなく、むしろ繰り返す。そのやり取りを笑いへ変えられるとわかったことで、身内の冗談が客席の前へ出ていく。全国に通用するキャラクターを先に設計したというより、目の前の仲間を笑わせた反応が出発点だった。

 同じ対談で志村は、ドリフでは稽古場でふざけている間に生まれた言葉やギャグを舞台に持ち込むことがあるとも語っている。身近な人が笑うかどうかを確かめ、それから観客へ出す。東村山音頭は、その作り方がよく表れた例なのだ。

 志村版の音頭は、単に地名を歌って終わらない。2020年のTBSラジオで音楽ジャーナリストの高橋芳朗が取り上げたように、音楽や動きの面にも洋楽からの影響を感じさせる仕掛けがあった。地元の素朴な歌と、志村が吸収してきた音楽や笑いが同居していたのである。

 同年7月14日には、東村山駅でこの曲を使った発車メロディーが始まった。地域で生まれ、テレビを通じて全国へ広がった歌が、街を訪れる人を迎える音にもなったわけだ。

 最初から町おこしを狙った芸ではなかった。それでも、田舎者と呼ばれてわざと歌った一曲が、誰にも負けない地元の看板になった。東村山の名前を隠さなかった志村けんの意地は、ずいぶん大きな実を結んだのである。

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