エスパー伊東「生活保護報道」に垣間見える「無への恐れ」

連載「キャベツ鶏太郎のサンデー・サービス」

人知れず入院生活を送っていた、エスパー伊東氏の近況がテレビ番組で報じられていた。

右変形性股関節症を発症し、氏の代名詞と言えるカバン芸が不可能になった上、脳閉塞を発症し、食事や発話にも苦労されている様子だった。特集の後半では、現在、氏が「生活保護を受けていた」ことが明らかにされた。まるで「衝撃の事実」とでも言うかのように。

何と貧しいのだろう、と思った。氏の現状が、ではない。私たちが語ることのできる言葉が、だ。

私たちの人生では、それまでの「あり方」が不意に剥奪されてしまうような出来事が起こる。大きな怪我を負ったアイドル歌手、重い病気を発症したスポーツ選手…。有名人でなくとも、私たち自身、例えば、家族の突然の死などをきっかけに、趣味も仕事も手につかなくなってしまうことがある。

「あり方」を失った時、私たちは無になってしまう。だからこそ、番組では、かつての「あり方」を取り戻そうと、再び舞台に立つことを目標に、懸命にリハビリに取り組む氏の姿が映されていた(その目標を氏に与えようとする爆笑問題の姿には、確かに愛が感じられた)。

自分の「あり方」こそが自分自身なのだから、それを取り戻そうとするのは当然のことだーーしかし、それは、本当だろうか?

「自分はどうあるべきか」「自分はどうありたいか」といった、「あり方」を巡る言葉は、世に溢れかえっている。「自分の「あり方」こそが自分自身だ」という思考の枠組みは、実は、単にそうした言説によって植え付けられたものに過ぎない。

私たちは、それらの言葉を使って、いくらでも自分や他人の「あり方」について語ることができる。しかし、それらの言葉では決して語ることのできないものがある。それは、私たちが「ある」ということだ。

私たちは「ある」。私たちの「あり方」は、その上に成り立っている、いわば二次的なものに過ぎない。しかし、その「ある」ということについて語る言葉を、私たちはほとんど持っていない。何とも貧しいことに。

「あり方」を失った時、私たちが「ある」という、最も本質的な事実が剥き出しになる。しかし、そこで、私たちは絶句してしまうのだ。

そもそも、なぜ私たちは、当然の権利であるにも関わらず、生活保護を受給することを忌避するのか? それは、金を稼げないとは、自分が社会に認められる「あり方」を持っていない(失った)ことを意味するからなのだ。無への恐れがそこにある。

「あり方」を失った人間が絶望して自らの命を絶つ。あるいは、「あり方」を持たない人間を「生きていても仕方がない」と断じて殺す。そこには、「あり方」の問題から、「ある」ことの否定への飛躍があるのだが、そのことに気づくのは難しい。

社会において生きることは、私たちを確かに生かしてくれるが、一方では、私たちを密かに殺す。「あり方」を生きることで、私たちは、自分が「ある」という事実を見失うからだ。そして、その時、自分自身として生きることは不可能となる。

なぜなら、「あり方」を生きる私たちは、嘘をついているからだ。私たちは、誰もが密かに知っている。自分の「あり方」は一種の演技であり、仮面であり、本当の自分ではないということを。自分の「あり方」を語る言葉は、自分の根源には決して到達しない、上滑りした、お化粧の言葉に過ぎないということを。

私たちには、いつか、自分が「ある」ことについて語れる日が来るのだろうか? その時、私たちは互いが「ある」ことを讃え合えるだろう。そして、何より、その時初めて、私たちは真に自分自身を語ることができるようになるだろう。

(キャベツ鶏太郎/エッセイスト)