チュートリアル徳井義実「活動再開」を巡る「グロテスクな茶番」

連載「キャベツ鶏太郎のサンデー・サービス」

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申告漏れで話題の、チュートリアル・徳井義実氏のインタビューを読んだ。

悪意があったわけではないという氏の発言を、私は全面的に信じる。しかし、むしろ、だからこそ氏は「危険な」存在なのだ。

テレビの画面の中で、いつもどことなく居心地の悪そうだった氏の顔が思い浮かぶ。おそらく氏には、子供の頃からずっと、周囲への違和感があったのではないか。「何でみんな、そんなことをしているんだろう?」と。そして今も、本当のところ、「なぜ自分はこれほど糾弾されなければならないのか?」と不思議に思っているのではないだろうか。

もちろん、そう正直に告白すれば、社会から排除されるに違いない。だから氏は、訳の分からないまま平謝りするしかないのであり、そのため、どれほど言葉を重ねたところで、その響きには奇妙な軽さが伴ってしまう。

一言で言えば、氏は社会規範を内面化することができていない。別の言い方をすれば、氏の中では、本来、社会的な人間としての背骨があるべきところに、ぽっかりと穴が空いている。自らの「ズボラさ」を繰り返し語る時、氏はその事態を説明しようとしている。

芸人の魅力はそこに存する。私たちは本来、誰もが背骨を持たない者であり、ぽっかりと空いた穴を密かに抱えている。だからこそ、その穴をうっすらと見せられる時、その芸人に魅了される(宮下草薙・草薙航基氏の魅力はまさにそれだ)。しかし、それが剥き出しになる時、今度は「危険な」存在として、その芸人への嫌悪が生まれる。芸人と私たちとの一見穏便な関係性には、そのような緊張が隠れ潜んでいる。

そもそも、なぜ私たちは社会規範に従わなければならないのか? ーー「危険な」存在との出会いは、密かに、そのような問いを私たちに投げかける。そして、実のところ、私たちはその問いへの明確な回答を持ってはいない。

もちろん、「そうでなければ社会秩序が崩壊するからだ」と言うことはできる。私たちは何よりも、自らが立つ足場が崩れることを恐れている。だから、空虚なかけ声に過ぎないとしても、こう叫ばないわけにはいかないのだ。「社会の秩序を維持するため、社会規範に従わない者には、罰を与えよ」と。

その時、「なぜ社会規範に従わなければならないのか?」という問いに対して、差し当たりひとつの答えが与えられる。「それは、社会において罰を受けないためである」と。

それは、空転した論理であり、社会規範の正当性を何ひとつ説明していない。しかし、そこから先は、答えがあると限らない「危険な」領域であるがゆえに、私たちはそれ以上踏み込もうとはしない(例えば、「社会がそうだからだ」と言ったところで、それもまた空転した論理に過ぎない)。

「危険な」存在は、そんな私たちに無言で問いかけてくる。「社会規範に従うことは、それほど大切なことなのか?」。それゆえ私たちは、大声を上げて徳井義実氏を糾弾しないわけにはいかないのだ。「社会規範に従わない者には、罰を与えよ」。

そして、それは同時に、私たち自身に対する密かな告発でもある。「あなたは単に、背骨があるフリをしているだけではないのか? 本当は、ぽっかりと穴が空いているのではないのか?」。それゆえ私たちは、一層大声を上げて、氏を糾弾するのだ。「彼は危険な存在だ。彼を十字架に付けよ」。

私たち人間は、一体いつまで、このグロテスクな茶番を繰り返すのだろうか? そう、呟かずにはいられない。

(キャベツ鶏太郎/エッセイスト)